公開日 2014年09月18日
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砂町遺跡
北部公園区域内において発見された「砂町遺跡」は、平成10年4月から平成11年度まで発掘調査を行いました。
平安時代の水田や奈良時代の道路跡(推定「東山道」)、古墳時代前期の灌漑用水跡が発見され、県内外から注目を集めました。
古墳時代前期の灌漑用水(約1,600年前)
古墳時代前期の用水路(南東から)
古墳時代は、その名が表すように古墳が築かれた時代で、4世紀~7世紀頃になります。群馬県の古墳は、4世紀頃に造られ始めました。前橋市の天神山古墳や八幡山古墳、玉村町の軍配山古墳、太田市の朝子塚古墳などが初期の古墳と言われています。
このころは、力を持つ者にしか古墳を造ることが許されず、権力の象徴でもありました。そのため、この時期の古墳の数はそう多くはありません。
そのような古墳が築かれ始めた時代に、砂町遺跡では4世紀初めの溝と4世紀後半の大溝が造られました。4世紀後半の大溝は、玉村町はもちろん、東日本でもっとも古いと思われる、水田耕作を行うための大規模な開発といえます。
古墳時代の大規模な灌漑用水
このころの玉村町は微高地と低湿地が入り組んだ地形で、当初は低湿地を利用して稲作を行っていたと考えられます。しかし、それでは天候に左右されやすく、一定量の収穫を得ることは出来ません。
4世紀後半になり、前橋市から玉村町一帯を治める強力な権力を持つ首長(支配者)が現れました。この首長が指揮して、前橋市から玉村町にかけて安定した収穫量を得るために大開発を始めました。
4世紀初めの水路が埋没した後、前橋市から玉村町にかけて幅約5m、深さ約1.2メートルの大きな溝が造られました。砂町遺跡では約100mが確認されました。
北西方向に約2km離れた前橋市徳丸仲田遺跡からも同じような大きな溝が発見され、同一の溝ということが分かりました。また、徳丸仲田遺跡では別の地点から同様の大溝が見つかり、前橋大地に同じような大溝が何条もあったと考えられます。
これほど大規模な灌漑用水は東日本ではこれまでなく、この開発により安定した食料を確保することができ、古墳時代を支える生活基盤が確立したのでした。
この灌漑用水は、埋没状態から4世紀後半から5世紀後半までの約100年間使用されていたようです。
砂町遺跡発見の推定「東山道」(とうさんどう)
推定東山道(西に浅間山を望む)
奈良時代の大動脈 推定「東山道」の発見
都を起点に、全国に向けてつくられた7つの官道(国道)のひとつが「東山道」です。特徴としては両側に側溝があり、道幅は広く、小さい丘くらいなら迂回などせず、丘を削って直線的に作道されています。
この道路は、重要な任務を持つ役人や地方での反乱を鎮圧するための軍隊が、都と地方の間を通行し、絶大なる国家権力が保たれていました。
砂町遺跡は、高崎情報団地遺跡で報告された道路遺構の推定ライン上に位置しています。ここは、これまで東山道ルート空白地帯となっていましたが、推定ライン上に約130mにわたって道路遺構が姿を現し、このルートがほぼ一直線につくられていることが分かります。
道路の状況については、残念ながら後世の水田耕作や河川の変遷などで壊されているため、路面そのものは残っていませんでしたが、両側につくられた側溝の跡を確認することができました。側溝の中からは、年代の決め手となる土器(土師器・はじき)も出土しています。
東山道の真ん中に立ち、西を望むと、浅間山を見ることができます。古代の人は浅間山を目標に道をつくっていたかもしれません。