玉村町の地名伝説

公開日 2014年09月18日

玉村(たまむら)

 天慶(てんぎょう)年間(938~47)ある土豪が、沼田(のんだ)(現在の伊勢崎市柴町・八斗島町、玉村町五料地域)の庄の美しい娘を平将門に差し出すことを企てた。この企みを知った娘の父親である地頭は、娘を娘と相思相愛の仲にあった錦野の里(現玉村町域)の若者のもとへ走らせた。しかし、娘は土豪の追っ手に錦野の里を流れる矢川のほとりに追い込まれ、ついに矢川に身を投げた。このとき、駆けつけた若者も同じく矢川に身を投げた。

 その後、この川に光る二つの碧玉(へきぎょく)が漂うのを見た村人は、娘が「龍人」の化身で、玉は「龍人のあぎと(あご)にある玉の精」と考え、この玉を拾い上げ、近戸(ちかど)大明神(現玉村町福島と南玉の間にあった神社)として祀った。近戸大明神は矢川の氾濫によりたびたび社殿を移していたが、今から500~600年前、利根川の洪水の中に龍神が現れ、近戸大明神に竜巻を起こし、祀ってあった碧玉を一つ持ち去ってしまった。そこで、村人は「別院 玉龍山」を設け、残った碧玉を二重の箱におさめ祀った。

 しかし、その後も洪水がよく起こったため、新たに新田村(上新田・下新田)をつくった。龍の玉によりできた村であるため、玉村と呼ぶようになった。

 現在、満福寺(玉村町福島)に碧玉が入っているといわれる黒塗りの二重の箱が伝わるが、見ると失明するといわれ、まだ誰も見たことがない。

玉村地名伝説の原話と思われる文書「玉村之故実」(玉村小学校寄託)

角渕・上之手(つのぶち・かみのて)

 貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。

 このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。
火雷神社
 火雷神社では毎年この伝説を由来とする(別伝もある)祭り「麦蒔御神事」(玉村町指定重要無形民俗文化財)が行われている。

飯塚(いいづか)

 光琳寺(こうりんじ)(玉村町飯塚)の近くに塚があった。源頼朝がこの地を通ったとき、この塚で昼食をとり、家来が食い散らかした残飯を集め供養したため、この塚を飯塚と呼ぶようになった。また、そのとき頼朝が使っていた箸を逆さに挿したのが根付いたため「逆さ柳」といわれる柳があったが、今は枯れて現存しない。

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