公開日 2020年04月30日
更新日 2021年06月03日
五丁目屋台・六丁目屋台(ごちょうめやたい・ろくちょうめやたい)〈下新田〉
五丁目・六丁目とも、祇園祭に使用する屋台の他に、玉村八幡宮の大祭に使用した屋台を持っています。五丁目の屋台は安政5年(1858)に建造され、それは越後の大工と埼玉県吹上の彫物師による彫刻といわれています。規模は平面2m44cm8mm×4m22cm9mm、棟高4m53cm8mm、床高1m54cm5mm、車輪直径1m10cmの総欅造です。前方左右の柱にそれぞれ昇り龍(右柱)、降り龍(左柱)が彫られている移動大舞台です。また、六丁目屋台は五丁目屋台の一年後に作られました。六丁目屋台の規模は平面2m44cm8mm×4m23cm2mm、棟高4m52cm、床高1m62cm3mm、車輪直径1m10cmで構造、形式とも五丁目屋台と同じです。作った大工、彫物師も五丁目と同一と推測されます。
五丁目屋台
六丁目屋台
観照寺阿弥陀板碑(かんしょうじあみだいたび)〈上之手〉
この3基は緑泥片岩でつくられており、死者の冥福、死後の安穏祈願の板碑です。13世紀から14世紀のもので、特に写真中央の弘長2年(1262)の板碑は、整形板碑では群馬県で最も古いものの一つで、高さ128cm、幅40cm、厚さ5cmです。向かって写真右の板碑は弘安7年(1284)のもので、高さ85cm、幅36cm、厚さ4cmです。向かって写真左の板碑は文和2年(1353)のもので、高さ97cm5mm、幅34cm、厚さ3cmです。
上之手の観照寺阿弥陀板碑
千輝玉斎作 豊年満作之図(ちぎらぎょくさいさく ほうねんまんさくのず) 〈町歴史資料館〉
千輝玉斎作 橋上人物百態図(ちぎらぎょくさいさく きょうじょうじんぶつひゃくたいず)〈町歴史資料館〉
千輝玉斎(1790~1872)は現在の中之条町出身とされ、幕末玉村宿の旅籠萬屋(千輝家)に婿入りしました。幼い頃から絵画を好み人々を驚かせたといわれ、稼業に余裕ができるとともに画道に励んで玉村随一の文人画家となりました。玉斎は特に人物・花鳥画を得意とし、そのタッチは葛飾北斎を彷彿させるものであり、現在も玉村町や出身地の中之条町には玉斎の佳作(屏風・掛軸等)が多く残されています。この二作品は、玉斎の代表作であるとともに、当時の民俗・風俗が巧みに描かれた民俗学的にも貴重な資料です。
豊年満作之図
稲作の過程を基本に農作業の様子や周辺の風景が巧みに描かれています。制作年代は第4面の秋祭りの場面で神社に立てられた幟旗に「萬延元申 鎮守御祭禮 村中氏子中」とあり、最後に「豊年満作之図庚申晩秋上澣日写之 印」とあることから、万延元年(1860)に描かれたと考えられます。
4面 | 3面 | 2面 | 1面 |
橋上人物百態図
琵琶湖畔瀬田唐橋を思わせる構図で、遠景の湖上には多数の舟が見え、橋上一杯に百人ほどの士農工商の人物群像が巧みに描かれています。制作年はありませんが、顔料等から幕末から明治初年に描かれたものと考えられます。
4面 | 3面 | 2面 | 1面 |
文安銘五輪塔(ぶんあんめいごりんとう)〈南玉〉
南玉の原家の墓碑群のなかに、二つの墓が寄り添うようにたっています。これは室町時代の夫婦のものと思われる墓で、夫は文安5年(1448)、妻は文安6年(1449)と刻まれています。
この時代、関東では断続的な戦乱が続き、玉村近辺でも康正2年(1456)に戦闘が行われた記録が残っており、平和とはほど遠い時代でした。
南玉の文安銘五輪塔
脇差(藤枝太郎英義作)〈わきざし(ふじえだたろうてるよしさく)〉〈町歴史資料館受託〉
藤枝太郎英義は文政6年(1823)、玉鱗子英一(ぎょくりんしてるかつ)の長男として川井に生まれました。英義は父のもとで修行し、その後、細川正義に学び、川越藩の刀鍛冶として幕末に活躍した人物です。町重要文化財に指定されたこの脇指は、長さ37cm2mm、反りは1cm2mm、目くぎ穴は一つで、英義最晩年(明治6年)のものであり、地元で作られたと考えられる大変貴重な作品です。
脇指(太刀作り)
人物埴輪「帽子をかぶる男子、坏を捧げ持つ女子」
(じんぶつはにわ「ぼうしをかぶるだんし、つきをささげもつじょし」) 〈町歴史資料館受託〉
この2体の埴輪は、八幡原古墳群から出土しました。埴輪祭祀の一場面を司るものと考えられます。作られたのは6世紀中頃で、玉村町にある人物埴輪のなかでは、たいへん残りが良く、作りが丁寧で、埴輪の目の開け方が特殊です。
「帽子をかぶる男子」はつば付きの帽子をかぶり、大刀を身につけた半身像で、顔・胸に赤彩が施されています。「坏を捧げ持つ女子」は腕を前に差し出し、坏を持つ半身像で、顔に赤彩が施されています。
「帽子をかぶる男子」「坏を捧げ持つ女子」
玉村八幡宮の建造物(拝殿・幣殿、隨神門、神楽殿)〈下新田〉
〈たまむらはちまんぐうのけんぞうぶつ(はいでん・へいでん・ずいしんもん・かぐらでん)〉
玉村八幡宮拝殿・幣殿 1棟、附(つけたり) 棟札(むなふだ)2枚(延享4年<1747>・慶応3年<1867>)
玉村八幡宮隨神門 1棟、附 棟札2枚(文化15年<1818>・慶応元年<1865>)
附 隨神門大修繕略記1枚(明治33年<1900>)
玉村八幡宮神楽殿 1棟
なお、これらの建造物に関わるものとして 附 棟札2枚(明治10年<1877>)
拝殿・幣殿、隨神門、神楽殿は国の重要文化財に指定されている本殿と共に旧日光例幣使道の旧玉村宿においても景観上の高い価値があります。これらの建物は江戸時代に建立され、維持管理されてきたものです。
拝殿・幣殿
共に同時期の18世紀初期に建築されたと推定され、本殿と接続し一体の建物になっていることから歴史的価値が高い。
拝殿
拝殿内部
幣殿内部
隨神門
慶応元年(1865)の上棟であり、歴史的価値の高いものである。彫刻など幕末の様相が著しくであり流派的または地方的特色において著しくなものである。
神楽殿
19世紀初期頃の建築と推定され歴史的価値が高く、また現在でも4月15日の春季例祭(太々講祭典)で神楽が舞われ、古くより町民に親しまれるとともに活用が図られている。
春季例祭の様子
嚮義堂(きょうぎどう) 〈樋越(上樋越)〉
嚮義堂 1棟(明治43年〈1910〉) 、附(つけたり)嚮義堂記1基(文化6年〈1809〉) 、附 学堂発起帳(がくどうほっきちょう)1冊(文化6年〈1809〉)
伊勢崎藩政時代の郷校で、文化5年(1808)11月に設立され、明治5年(1872)に学制が制定されるまで、農閑期を利用して庶民に漢学が教授されました。校名は「義に嚮(むか)う」の意味で浦野 神村を始めとする藩儒が交代で出講しました。
現在ある建物は郷校として使用された当時の建物ではありませんが、屋根瓦に「學」の文字が刻まれており、江戸時代の郷校の精神を現代に伝えています。
※嚮義堂は外観のみ見学可。
嚮義堂記
嚮義堂建物前にある庭の西側隅に建っている記念碑です。
嚮義堂設立の過程が記されています。
文化6年(1809)の刻銘があります。
高さ85cm、幅37cm、厚さ25cm、(基礎)高さ50cm、(基礎上部)幅62cm、奥行52cm、(基礎下部)幅90cm、奥行80cm
学堂発起帳
嚮義堂設立時、当時の組頭であり、嚮義堂の初代頭取であった八木 丈右衛門の末裔の家に保管されていました。
嚮義堂記と同様に嚮義堂設立の過程を詳細に記した貴重な文書です。
井田家住宅(主屋、酒蔵、土蔵、煙突) 〈いだけじゅうたく(しゅおく、さかぐら、どぞう、えんとつ)〉〈上新田〉
旧日光例幣使道(県道142号線)の北側で、玉村八幡宮への参道西に位置します。井田家は慶安年間以前に下之宮村(玉村町下之宮)から玉村八幡宮大門脇の上新田村に移住しました。代々名主と問屋を務め酒造業も営み、金七郎(後には金七)を襲名しました。酒造業は宝永2年(1705)より営み、文化年間には京都の商人と生絹、白絹、色絹などの絹の取引を行っていました。嘉永年間の『店調帳』によると質屋も営み、食料品を筆頭にあらゆる商品を扱い、商圏が地元玉村はもとより、高崎、藤岡、熊谷、本庄、館林、足利まで及んでいたことがわかります。当家は江戸後期において、玉村宿を代表する商人でした。屋号は「和泉屋(いずみや)」、酒の銘柄は「不尽泉(ふじいずみ)」で、酒造業は昭和58年(1983)まで営んでいました。
屋敷には「主屋」の他、「酒蔵」「土蔵」「倉庫(3棟)」「事務所」「離れ」の7棟の付属建物と「煙突」が配されています。
井田家住宅の価値は以下の点にあります。
(1) 日光例幣使道の玉村宿と玉村八幡宮を語る上で、欠かすことのできない歴史を有する。
(2) 主屋の他に付属建物を多く残し、屋敷構えが整っている。
(3) 主屋は江戸時代中期に建造された現存する玉村町最古の民家建物である。
(4) 主屋は江戸時代在郷商人の実態を示すとともに、日光例幣使道を物語る建物である。
(5) 近接する玉村八幡宮とともに地元住民に親しまれ、玉村町のランドマークとなっている。
主屋(しゅおく)
主屋は木造2階建て(一部平屋)です。屋根は当初草葺、その後板葺とし、昭和6年(1931)に瓦葺に葺き替えたと伝えられています。外壁は正面を白漆喰塗、両側面を押縁下見板張、背面を土壁塗(一部白漆喰塗)とします。内部1階は床を畳敷、壁を白漆喰、天井を大引天井(直天)又は棹縁天井とします。
建物規模は、1階は桁行 24.64 m(最長部)、梁間 15.68 m(最長部)、2階が桁行 17.10 m、梁間 11.40 m、床面積は1階が 330.42 ㎡(土庇・ポーチ部分を含む)、2階が 162.45 ㎡、計 492.87 ㎡です。土間の「ミセ」「ダイドコロ」と床上部分の「オモテノマ」「トコノマ」「オチャノマ」「トオリオク」が建造当初の部分であり、農家の平面形式をとっています。一方、「ゲンカン」「ヒカエノマ」「ジョウダンノマ」などを配する西側の平屋部分は、後からの増築によるものです。
当建物は建造年代を直接示す棟札や古文書を残していません。しかし、「トオリノオク」と「オチャノマ」境の柱に「帳台構え」の痕跡があること、「トコノマ」の「床の間」の奥行が柱内法 0.94 尺であること、「トコノマ」の柱間2間の内法寸法が桁行方向 12.16尺、梁間方向 12.07 尺であること、表側2室の差鴨居上部に1間間隔に建っていた柱が残されていること、「トコノマ」と「トオリノオク」の境に床の間を設け建具としていないこと、などの建築に見られる特徴、及び酒造業を宝永2年(1705)から営んだことなどから、当建物は江戸時代中期(18世紀前半)の建造と推定されます。建造当時は草葺とし平屋、または土間部分のみ2階建て(屋根裏利用程度もありうる)、その後板葺とし2階床を設け(「チャノマ」上部を除く)、昭和6年(1931)になり更に2階利用の利便を図るため嵩上げをして洋小屋の瓦葺としたものと推定されます。
酒蔵
木造平屋建てで、中二階を持ちます。
建造年代については明治時代初期と推定します。また、昭和7年『井田家家相図』(井田家蔵)に増築後の「醸造蔵」が記されていることから、大正時代に南側と東部分を増築したと推定されます。
土蔵
土蔵
木造2階建ての土蔵造りです。建造年代は2階南窓付近に「天保八年(1837)酉正月吉日 良介御改」と読め、また別の枠には「文化寅(1806あるいは1818)ヨリ□□」とあります。当建物は「テンメイクラ」と称されていたことから、天明3年(1783)の飢饉後の建設であると考えられます。その後、オミセ付近にあったものを曳家したとの伝承があります。
煙突
煉瓦造りで基壇より上四隅はL型鋼で補強されています。
建造年代については、明治時代は盛んに煉瓦が使用されたこと、関東大震災後に煉瓦造は造られなかった可能性が高いことなどから、明治・大正時代の建造と考えられます。
※井田家住宅は店舗部分のみ見学可。