公開日 2019年03月05日
梨ノ木山古墳(なしのきやまこふん) 〈下茂木〉
梨ノ木山古墳は二段築造の円墳として残存していますが、前方後円墳の後円部であったものと推測されます。築造年代は5世紀後葉と推定され、昭和41年の発掘では、二重の堀をめぐらせた広大な墓であることがわかり、滑石製模造品、円筒埴輪破片等が出土しました。軍配山古墳と並んで、地方の支配者の墓と推定されます。
梨ノ木山古墳
軍配山古墳(ぐんばいやまこふん) 〈角渕〉
烏川沿いに川井から八幡原まで4世紀から7世紀にかけてできた古墳が数多くありました。軍配山古墳は、竪穴式の円墳で古墳時代前期(4世紀)に作られたと推定されています。昭和5年地元の人達により墳丘が掘り起こされた際、鏡等多くの出土品が発見されたことから肥沃な農耕地を支配した豪族の長を埋葬したものと思われます。
軍配山の名は、天正10年(1582)の神流川合戦に滝川一益がここに陣をしき、軍配を振るったというところから付けられたと伝えられています。
軍配山古墳
五料関所跡門柱礎石・井戸(ごりょうせきしょあともんちゅうそせき・いど) 〈五料〉
玉村宿から日光例幣使道を進んでいくと、利根川を渡る前に、五料の関所を通らなければなりませんでした。ここは日光例幣使道でただ一つの関所であり、元和2年(1616)に設けられた、近世としては全国で2番目に古い関所です。ここでは「入鉄砲出女」の取り締まりや、利根川を上下する船の監視が行われました。今は2つの門柱の礎石と、古井戸が残っているだけです。
玉村町は、玉村宿・五料宿と五料の関所がある日光例幣使道の他に、南北には三国街道に出る佐渡奉行街道が通るという、交通の要所だったのです。
五料関所跡
井戸
木島本陣跡歌碑(きじまほんじんあとかひ) 〈下新田〉
玉村宿の木島本陣には日光例幣使や大名が宿泊しましたが、慶応4年(1868)の大火で焼けてしまいました。日光東照宮への例幣使派遣は正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで、221年間一度も中断もなく続けられました。通例、日光例幣使の帰路は東海道を通りますが、往路だけでなく、帰路も日光例幣使道を利用した参議綾小路有長が書き残した和歌が石碑となって当時の名残を止めています。
「玉むらの やどりにひらく玉くしげ
ふたたびきその かへさやすらに」
(歌意=今回無事使命を果たし、玉村宿にふたたび戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る。)
木島本陣跡歌碑
記載画像の転用は一切禁じます。