公開日 2018年06月05日
更新日 2021年10月24日
県指定重要文化財
渡辺家文書「三右衛門日記」 (わたなべけもんじょ「さんえもんにっき」) 〈町歴史資料館寄託〉
福島の渡辺三右衛門陳好が記録した天保13年(1842)12月28日から明治2年(1869)10月18日までの日記です。三右衛門は福島村の名主だけでなく、玉村宿寄場組合の大惣代を務めた人物です。日記には広域にわたる様々な出来事や事件が記録されており、近代日本が夜明けを告げる時期の貴重な資料として評価されています。
三右衛門日記
三右衛門の肖像画
小泉大塚越3号古墳出土品一括(こいずみおおつかごしさんごうこふんしゅつどひんいっかつ)
〈町歴史資料館〉
小泉大塚越3号古墳は、玉村町市街地中心より南東へ約4km、利根川右岸に面した前橋台地南端部に位置します。主軸方向はほぼ東西で、後円部が西を向く前方後円墳です。2段築成で、前方部西に造りだし部があります。規模は造りだし部から前方部墳丘裾部までは55m、造りだし部を除くと、墳丘裾部では46mを測ります。埴輪列は、立っているものが356本を数えます。石室の構造は横穴式両袖型石室で、上半が後世の破壊を受けています。比較的大ぶりの角閃石安山岩を使い、基本的に背面を除く5面を削り加工しています。推定9~12体の人骨が埋葬されていたと考えられます。出土品には金属製品、円筒埴輪、形象埴輪(人物、馬形、器財形)、須恵器、土師器、玉類があります。これらの特徴から小泉大塚越3号古墳が造られたのは6世紀後半を中心とする時期と考えられます。なかでも以下の2点は、当地域の6世紀における古墳文化を考える上で極めて重要な資料です。1.単鳳環頭大刀柄頭。鳳凰の顔を横に向けてくちばしを閉じています。金銅製で、銅または青銅を溶かして鋳型に流し入れて一体に作られています。表面には鍍金が施されています。2.冠。破片ですが、山字式冠あるいは出字式冠と呼ばれている冠の部分に類似しています。
小泉大塚越3号古墳出土環頭大刀柄頭
小泉大塚越3号古墳全景
小泉長塚1号古墳出土品一括(こいずみながつかいちごうこふんしゅつどひんいっかつ)
〈町歴史資料館〉
小泉長塚1号古墳は、玉村町市街地中心より南東へ約4km、利根川右岸に面した前橋台地南端部に位置します。墳形は発掘調査からは径約30mの円墳ですが、前方後円墳の可能性もあります。墳丘石室前に円筒埴輪(三・四段構成)を「ハ」の字状に樹立し、また前庭部外側に円筒埴輪(五段構成)を樹立して区画しています。石室前庭部東側からは人物埴輪・馬形埴輪が出土しました。石室の構造は横穴式両袖型石室で角閃石安山岩を使い、基本的に背面を除く五面を削り加工しています。推定15体の人骨が埋葬されていたと考えられます。出土品には金属製品、円筒埴輪、形象埴輪(人物、馬形、家形)、須恵器、土師器、玉類があります。これらの特徴から小泉長塚1号古墳が造られたのは6世紀後半を中心とする時期と考えられます。なかでも以下の2点は、当地域の六世紀における古墳文化を考える上で極めて重要な資料です。1.単鳳環頭大刀柄頭。鳳凰の姿は全体が肉厚で、細部まで立体的に表現されています。首の付け根に残る二つの突起は飛雲文と呼ばれます。柄頭は鉄製で鍍金されていると考えられますが、薄い金箔を張っている可能性もあります。これらの特徴から、朝鮮半島で製作された可能性があります。2.冠。破片ですが、透かし彫りや、針の孔ほどの孔が開けられています。
小泉長塚1号古墳出土 単鳳環頭大刀柄頭
小泉長塚1号古墳全景
太刀 銘 備州長船実光(たち めい びしゅうおさふねさねみつ)
〈個人〉
昭和38年9月に指定された室町時代初期(応永年間)の「応永備前」を代表する刀工の一人である長船実光の太刀が、所蔵されている方の転居により、令和3年1月21日に町内の指定文化財に加わりました。銘(表)は「備州長舩實光」、(裏)「應永九年三月 日」です。寸法は、長さ71.5㎝、反り2.78㎝、形状は、目釘穴2個、鍛え板目・杢目、刃文互の目・乱れ、彫り物なしです。
県指定重要有形民俗文化財
利根川中流域玉村町の漁撈用具一括
(とねがわちゅうりゅういきたまむらまちのぎょろうようぐいっかつ) 〈町歴史資料館〉
群馬県は海なし県ですが、坂東一の川である利根川が流れています。その利根川の中でも烏川・神流川・広瀬川などが合流する利根川中流域は、昔から魚が豊富で、上流と下流の魚が行き交う最も魚種が多いといわれた地域であり、独特の漁法が営まれていました。春はマヤによるマルタ・クキ漁、夏のササアミによるアユ漁、秋から冬にかけて行われるトアミやモモシキアミによるサケ漁などが主な漁でした。しかし、その伝統漁法も魚が減少したことなどから、廃れてしまい、後継者もほとんどいない状況です。かつて漁を営んでいた人も高齢となり、漁具の散逸や漁法などの漁業文化自体も途絶えてしまうことが心配される状況です。そのため、平成18年度文化庁のふるさと文化再興事業の委嘱を受け、玉村町五料の岩田家を中心に玉村町の漁具・漁法が調査されました。その結果、いろいろな種類の網(モモシキアミ・イクリアミ・ハキアミ・トアミ・ササアミ・ササリアミなど)やその他の漁具(ドウ・ヤス・ビクなど)の使用方法や漁法が明らかになりました。これらは、調査報告書『利根川の漁撈—中流域の漁法と漁具』や、映像記録「利根川中流域の漁具・漁法—群馬県玉村町五料−」にまとめられました。この調査で調べられた漁具のほとんどである220点は玉村町に寄贈され、平成20年3月27日に海のない群馬県で行われた川での漁撈の様子を物語る他に例をみないまとまった数の貴重な漁具として県指定重要有形民俗文化財となりました。
利根川中流域玉村町の漁撈用具
県指定史跡
斎藤宜義の墓 (さいとうぎぎのはか) 〈板井〉
玉村八幡宮には、和算家斎藤宜義ゆかりの算額が現存しています。算額とは、和算家が「こんなに難しい問題ができました」という証に、神社や寺に奉納したものです。斎藤宜義は文化13年(1816)に板井に生まれ、父の宜長とともに関流和算の大家となり、円理といわれる微積分の研究に優れた業績を残しました。斎藤宜義には数多くの弟子がおり、日本三老農といわれた船津伝次平もその一人でした。財産を一代で使い果たすほど研究に没頭し、身なりも住まいもかまわず、道を歩くにも和算についての独り言をぼそぼそとつぶやいていたそうです。その墓が宝蔵寺(板井)にあり、「数学院乾坤自白宜義居士」という、いかにもふさわしい戒名が彫り込まれています。
宝蔵寺(板井)にある斎藤宜義の墓
記載画像の転用は一切禁じます。