公開日 2014年09月26日
国家の成立(律令制)
701年、大宝律令が完成し、天皇を中心とした全国支配の体制が整えられました。土地や人民は国家のものという原則(公地公民制)にもとづいて、班田収受の法や租・庸・調などの税が定められ、全国には国・郡・里(郷)がおかれました。古墳時代には上毛野(かみつけぬ)とよばれていた群馬県も上野国(こうずけのくに)となり、中央政府の役人である国司が派遣されました。
律令制は、竪穴式住居に住み、田畑を耕し、布を織り、兵役に従事したムラの人々によって支えられていました。奈良・平安時代の集落趾である上之手八王子遺跡では、10世紀以降、住居の数が急に減っています。これは、律令制が崩れた表れとみることもできます。
古代の幹線道路 東山道駅路
東山道駅路は都と陸奥路を結ぶ古代の道路で税・物資の運搬や軍事道路として使用されました。駅路とは官吏のために約30里(16km)ごとに駅家と呼ばれる施設が設けられたことに由来します。県内では、牛堀−矢ノ原ルート(7~8世紀後半)と国府ルート(9世紀以降)が確認されています。玉村町からは牛堀−矢ノ原ルートにあたる道路遺構が現在3遺跡から確認されています。このうち砂町遺跡(玉村町上福島)は両側側溝の心々距離9~11mを測り、側溝から7世紀後半の遺物が出土しています。中之坊遺跡(玉村町樋越)からは波板状の凸凹面が確認され、路面形成を考える上で貴重な手がかりになっています。
砂町遺跡
一万田遺跡(玉村町上福島)
律令制の下、群馬県には14の郡がおかれました。現在の玉村町は那波郡佐味郷(なわぐんさみごう)と鞘田郷(さやたごう)にあたると思われます。地域の有力豪族が郡司に任命され、郡の役所である郡衙(ぐんか)で税のとりたてや戸籍の作成などを行いました。三軒屋(さんげんや)遺跡(伊勢崎市)や天良七堂(てんらしちどう)遺跡(太田市)は郡衙跡ではないかと思われる遺跡です。
平成3年に発掘された一万田遺跡では、直径1mの柱穴が、約3m間隔で100m以上も続く大規模な塀の跡が確認されました。多数の瓦、灰釉(かいゆう)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)の他、「舎」や「奉」と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)も出土しました。ここが郡衙のような公的な施設だった可能性もありそうです。
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荘園の発生 玉村御厨(みくりや)
開墾した土地の私有を認める墾田永年私財法(天平15年・743)により、公地公民の原則は崩れていきました。
平安時代後期、天仁(てんにん)元年(1108)の浅間山の爆発は、上野国内の田畑が壊滅するほど大きなもので、玉村町付近でも40cmくらいの火山灰が積もったと思われます。豪族は農民を集め、火山灰で荒れた田畑を開発して私有地を広げると、土地の支配権と利益を守るために、中央の貴族や寺社に土地を寄進しました。上野国では、この災害からの復興をきっかけに、多くの荘園がつくられました。
12世紀中頃に成立した玉村御厨は、伊勢神宮に寄進された荘園で、125町(約125ha)の土地から麻織物30反が毎年献上されました。
八稜鏡(はちりょうきょう)
玉村町樋越(奈良・平安時代)神人村(じんじんむら)2遺跡
神人村2遺跡の30号土坑から出土した平安時代の鏡です。八角形(八稜)であることと文様から瑞花双鳳(ずいかそうほう)八稜鏡と呼ばれます。双鳥文系唐式鏡の系譜を引くもので平安時代を代表するものです。前代の唐式鏡にみられた文様の多様性がなくなると同時に鏡自体の数も著しく減少します。遺跡からは平安時代の5棟の掘立柱建物跡が見つかっています。近接して公的施設の可能性のある一万田遺跡があります。八稜鏡は石の上に置かれた状態で出土していることから地鎮・鎮壇具としての意があったものと考えられます。
銅印
玉村町上飯島(平安時代)上飯島芝根2遺跡
上飯島芝根2遺跡から出土した銅印です。古代の銅印の県内発見例は他に14事例しかありません。遺構には伴わないものの、平安時代の住居48軒・区画溝が確認されていることから、同時期のものと考えられます。印文は「影」と記されており、特定はできませんが氏名を示すものでしょうか。私印の使用については『類聚三代格』(貞観10年・868)に家印の使用を奨励しており、印の大きさは一辺1寸5分(約4cm5mm)以内とされています。この銅印は方3cm3mm・高さ3cm6mmを測り、規定の大きさに収まります。
腰帯具(こしおびぐ)
玉村町上之手(奈良・平安時代)若王子(やこうじ)遺跡、上之手地区遺跡群
奈良・平安時代の大集落が確認された若王子遺跡から出土した丸鞆(まるとも)です。また上之手地区遺跡群仮鉄塔No.138地点から出土した鉈尾(だび)です。ともに奈良・平安時代の役人が着用した腰帯具の部分です。律令国家では服飾規定を定め、一~五位の役人には金銀装腰帯等、在地首長である六位以下では雑石腰帯等を着用させました。
鉈尾(左)と丸鞆(右)
硯
玉村町上之手(奈良・平安時代)上之手石塚遺跡
上之手石塚遺跡から出土した須恵器硯です。遺跡からは奈良・平安時代の大集落が確認されました。当時硯は文字を読み書きする特権階級が使用する道具で、この硯も量産品ではなく特注品です。一般の集落からは出土することはなく、とても稀少です。おそらく下賜されたものでしょう。墨をすり下ろした痕跡は認められなく、使われずに丁重に保管されていたものと考えられます。
棒状製品
玉村町福島(平安時代)福島治部前(じぶまえ)遺跡
福島治部前遺跡から出土した棒状製品です。遺跡からは平安時代の集落が確認され、遺構には伴わないものの同時期のものと考えられます。石製である可能性が高いのですが、金属製であるとの意見もありはっきりしません。匙(さじ)やかんざしの可能性もありますが、類似品がなく一体何に使われていたのか現在のところ謎のままです。