公開日 2014年09月25日
武士の世の中【1】
上野武士玉村太郎
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、国ごとに守護をおき、その国の軍事や警察の仕事にあたらせました。上野国では、安達氏が盛長以降四代にわたって守護をつとめ、強い権力で上野武士を統制しました。安達氏の活動を支えた上野武士の一人が玉村氏です。
玉村氏はもともと玉村御厨を開発した領主で、鎌倉時代には安達氏の家臣として大いに活躍しました。その様子は、当時の絵巻物『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』や、歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』の中に記されています。玉村氏の館は、現在の下新田または南玉、上之手(観照寺)といわれています。
武士の世の中【2】
戦乱の中で
鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政の下(もと)では新田義貞が上野国司となりましたが、室町幕府が開かれると、関東管領(かんとうかんれい)をつとめた上杉氏が上野の守護となり、広く関東の実権を握りました。しかし、関東で戦乱が続くようになり、上杉氏の勢力が弱まると上野国は北条氏康・上杉謙信・武田信玄の戦国武将の勢力争いの舞台となって、三大勢力の境にあった玉村町も、激しい戦いに巻き込まれていきました。
戦乱の時代、戦場で戦う武士も戦いに巻き込まれた農民も、死と隣り合わせの生活の中で、仏に安らぎを求めました。玉村御厨の本木(茂木)郷(もとぎごう)の人々は、現世での救いを求めて文和3年(1354)宝篋印塔(ほうきょういんとう)を造立しました。仏教をもとに農民の結束は強まりました。
宝篋印塔 文和3年(1354)
現在、歴史資料館に展示されている宝篋印塔は、もとは法蓮寺(ほうれんじ)(玉村町下茂木,天台宗)にあったものです。茂木郷の法華(日蓮)宗の信者35名の名が刻まれています。法蓮寺は後に天台宗に改宗したものと思われます。
玉村町の中世屋敷【1】
現存・発掘された屋敷
玉村町には中世屋敷を寺社として利用した例(玉村八幡宮)がある他、先祖代々住み継がれている例(新井屋敷)があります。現存する屋敷にはそれぞれ歴史や言い伝えがあり、玉村太郎の館(やかた)と伝えられる観照寺(玉村町上之手)の事例があります。現存する屋敷だけではなく、田畑の区画によって屋敷の痕跡が推定できる事例や発掘調査によってはじめて屋敷の堀割が現れる事例があります。
ところで、なぜ屋敷のまわりに堀をめぐらせたのでしょうか。水を引き込む灌漑(かんがい)のためや敵からの防御のためでしょうが、八幡原赤塚2遺跡のように堀の深さが0.3~0.8mと浅いものがあり、区画の要素が強い事例もあります。また上之手石塚遺跡のように区画溝を延長することによって屋敷の拡大を図った事例もあり、堀や溝にはさまざまな意味があったものと考えられます。
新井屋敷(玉村町上之手)
南辺を除いて一辺約50mの堀がめぐっており、町内でもっとも保存の良い環濠屋敷(かんごうやしき)のひとつです。
上之手石塚遺跡(玉村町上之手 13~14世紀)
3つを数える屋敷跡が確認され、1号屋敷跡は堀を堀り直し、さらに北側に連結するように区画溝を延長しています。北西には引水溝があり、水をとり入れていたことがうかがえます。12世紀後半の渥美大甕(かめ)をはじめ、中国産青磁が出土しました。13~14世紀の屋敷と考えられ、県内でも最も古い中世屋敷のひとつです。
玉村町の中世屋敷【2】
玉村を特徴づける屋敷
玉村町には、堀をめぐらせた屋敷が複数集中して存在する箇所、あるいは複数連結している箇所があります。このようなものを環濠屋敷群と呼び、町内では斎田・飯塚・藤川等にそれぞれ認めることができます。県内では、前橋南部、高崎東部、伊勢崎に濃い分布があります。奈良県では竹ノ内環濠集落に代表されるような集落そのものを堀で囲っています。
環濠屋敷群には、(1)集中してるが、それぞれ独立しているもの、(2)それぞれの堀が連結しているものに分けることができます。(1)に属するものとして斎田の事例があり、(2)は飯塚・藤川の事例が該当します。また、中世に遡るかどうかは不明ですが、幕末の藤川村絵図からは藤川から用水を引いて屋敷の周囲にめぐらせた環濠形態とみることができます。環濠形態は互いに堀をめぐらせていることで存在する意義があり、堀の管理も組織化されていたのかもしれません。
田口下屋敷(玉村町斎田)
斎田環濠屋敷群の中でも一番大きな規模をもち、二重の構えがあります。発掘調査によって、北西から水を引き入れていたことがわかりました。外堀から青磁・古瀬戸・カワラケ・内耳鍋(ないじなべ)・軟質陶器鉢・常滑(とこなめ)・板碑が出土し、15~16世紀のものと考えられます。
玉村町の中世石造物
総数110基(石像23基・板碑60基・宝篋印塔9基・五輪塔18基)
石像23基(阿弥陀7基・薬師5基・地蔵4基・聖観音3基・弘法大師2基・他2基)
阿弥陀如来浮彫坐像(玉村町上之手 観照寺)南北朝時代
肉髻(にっけい)が垂直に近く地髪部から盛り上がり、鎌倉時代仏に近い特徴を持っています。上之手の小字沢渡から出土しました。天明3年(1783)浅間山焼泥押(やまやきどろおし)に吾妻郡沢渡温泉から流れてここに到ったとの伝承もありますが、小字沢渡からの誤伝ではないかと思われます。「沢渡薬師」と呼ばれていますが、像容は阿弥陀如来です。
聖観音菩薩浮彫坐像(歴史資料館)南北朝時代
合掌型で、光背の幅が狭い像です。
弘法大師浮彫坐像(玉村町五料 常楽寺)室町時代
右手に金剛杵(こんごうしょ)(五鈷杵(ごこしょ))、左手に念珠(ねんじゅ)を持った典型的な弘法大師像で、現在は無縁仏塔上に安置されていますが、10年前までは参道の右側にありました。
玉村町指定重要文化財 阿弥陀三尊板碑(いたひまたはいたび)(玉村町上之手 観照寺) 写真向かって右より弘安7年(1284)・弘長2年(1262)・文和2年(1353)
板碑とは、死者の供養や自らの死後の冥福を願って造られた供養塔の一種で、鎌倉時代中期に発生し戦国時代に終わりを告げた板状の石造物です。石材は秩父産の緑泥片岩で、上部を三角に刻み、その下に二条線、次に種子(しゅじ)(梵字の仏名)を彫り、さらにその下に偈(げ)(仏を賛美する詩)、紀年(造立年月日)、造立の理由などが刻まれています。弘長2年の板碑は、二条線の入った整形板碑としては県内最古のもので、「十方三世仏 一切諸菩薩 百万諸正教 皆是阿弥陀」という偈が彫られています。
阿弥陀三尊板碑(歴史資料館)建治2年(1276)
もとは玉村町下茂木の法蓮寺にあったものです。
阿弥陀三尊板碑(歴史資料館)文和3年(1354)
もとは玉村町小泉の公民館の前にあったものです。
十一面観音菩薩立像
像高119cm、檜(ひのき)の寄木造り(よせぎづくり)の十一面観音像は、室町~江戸初期のものと推定され江戸時代までは、火雷(からい)神社(玉村町下之宮)の神楽殿(かぐらでん)(江戸時代までは観音堂)にまつられていました。火雷神社は、およそ1800年前、雷をしずめるために火雷神(ほのいかずちのかみ)をまつってつくられたと伝えられる神社で、中世には東林寺(とうりんじ)が付属していました。明治維新の神仏分離とともに、この十一面観音像も東林寺に移されました。
百足丸(むかでまる)由来伝説
邪心を持つ者が見ると刀身が百足のように見えることから名付けられた刀だという。方言で「むかぜ丸」ともいう。
川中島の戦いで活躍し、長篠の戦いで武田方の落武者として、上樋越(現玉村町樋越)に落ちのびてきた設楽(したら)左ヱ門大夫長隆が持っていた刀といわれる。その刀は玉村町箱石の設楽家にいつしか渡った。ある時、前橋城主酒井氏が百足丸を気に入り買い上げたが、夜な夜な鐔(つば)鳴りがするので気味が悪くなり、設楽氏に返したという。またある時、質入すると質庫のなかで「設楽恋しや百足丸」と叫んだともいわれる。さらにまた、五料関所に勤めていた設楽氏が関所近くの常楽寺の門の前で妖怪に会い、百足丸で切り捨てたところ、翌朝見ると、石仏の首が落ちていたという言い伝えも残る。
また、樋越の設楽家には、剣道の達人であった先祖が、新町の河原で果し合いがあったとき、百足丸を使ったと伝わる。
百足丸には戦いの後を物語る刃こぼれが残っている。
この刀は、見ると両眼が潰れると言われ黒塗りの桐箱に納められ天井裏につるされていたが、明治末年取り出された。